はじめに

何かを考えるとき、ふとどんな手法を取ればいいのかを考える。文章として記述するか、会話を通じて思考するか、頭の中で考えるか、主にはこの三種である。それぞれの手法には導きだされる答えに性質があるように感じている。

 まず文章について。これは紙に書き出すこととワープロで書き出すことにも違いがある。単に書き直しが容易かどうかだと考える。やはり思考に記述する手が追いついていかないことが大きく影響しているのではないだろうか。思考の全ては記述しきれず、残滓みたいなものがこぼれ落ちる。時にはそれが文章を簡潔に、洗練させている錯覚に陥る。うん、とんだ勘違いだと思う。
 続いて会話について。プレゼンテーション能力を排除することが前提であるが、安定したペースで出力を行える。ただし、後の修正が結構必要であると感じている。過去、仕事でインタビュー記事を作成するときは、対談内容をレコーダーで録音し、書き出し、文章修正、構成作業が必須であった。特に「書き出し」は実際にやってみると大変労力がかかる。言葉というものがどれほど曖昧な輪郭をしているのかを思い知らされる。音声データだけでは、相手の表情や口元の形から吐き出される言葉を推測できない。しかし、やはりというか、安定した出力を保てるのは魅了である。仕事においても、電話/メール/手紙の順に浪費する時間はおさえられる。私も可能な限り業務処理を電話/内線に頼るようにしたら業務時間がぐんと減らせた。メールならば履歴を残せたり利点もあるが、そんなに重要じゃない。自分の手帳にでも残しておけば平気である。
 さて、最後に頭の中で考えること。正確に言えば、どの手法だって根源には「思考」があるけど、ここではコーヒーでも飲みながらおもいに耽る的な行動を「思考」としたい。突飛なアイディアが浮かぶのはもっぱらこの思考であると思う。しかし、物理的に何かの記録をするわけではないし、生まれたアイディアがふと消えてしまうデータ的な恐ろしさがある。しかし、多くの人が期待するのはこの「思考」ではないかと思う。この思考の質を上げる為には、日々どれだけの経験と情報としてのインプットを行っているかに依存するはずだ。なんにも考えていない人の思考はあまり役に立たない(全く立たないことはないが)どちらにせよ、結構作りが貧弱なものが出来上がる可能性は高いので、まずは素材として取り扱うのが無難である。
 突然こんなことを書いてみたことには理由が少しある。頭の体操をしようと思ったのだ。高校時代、大学時代は暇さえあれば身勝手な文章を毎日何千文字が書いていたけど、働きはじめてから文章を書くことから少し、離れていた気がするからだ。
 といっても、仕事で何か特定の対象についての文章を書くことはあるが、やはりお客様がいる仕事だと身勝手はいけない。その身勝手さをアウトプットする機会が失われると、気付けば自分が丸くなってしまう、丸さが際立って、そのまんま大きくなる、そんな思いがあるのだ。人に迷惑をかけることは嫌いだ、というか気分が悪い。やはり小心者だからである。しかし、身勝手で存在して良い場所がある。それがブログという場所だった。それを知っていた。だから、何時まで続けられるかはわからないけど、昔みたいに自由に、身勝手に、第三者にとって、そして自分にとっても明確に役には立たないだろうなみたいな文章をろくな校正作業をすることもなく書き残しておきたいと思う。そうだ、私自身、残滓をこよなく愛しているのかもしれない。
記述終了(1431文字)校正後(1445文字)作業時間(31分)投稿日(2016年03月11日)

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