会田誠展

2016/07/06-2016/08/20
会田誠展「はかないことを夢もうではないか、そうして、事物のうつくしい愚かしさについて思いめぐらそうではないか。」
Mizuma Art Gallery – ICHIGAYA TAMACHI
〒162-0843 東京都新宿区市谷田町3-13 神楽ビル2F
開館時間: 火曜日から土曜日の11:00-19:00
休廊日 : 日曜・月曜・祝日

とても有意義な時間を過ごせた。
鑑賞を終えて、ミヅマの重い施設のドアを開けると、
控えめな喫煙所と、垂れ下がる展示会のポスター。
話はそれるが、自らが喫煙者なので喫煙場所が優遇されている施設は、
それだけで良質なギャラリーであると勝手に思い込んでいる。

そこでポスターを改めて見つめ直し、なぜそうなったのかが腑に落ちる。
安倍総理と展示会のタイトルのセレクトに至るまでの思考のトレース。

事前に新作のイメージを公開することは禁じ、ヴィジュアルに関しては展覧会オープン初日まで完全な秘密主義を貫きます。

それはすんごくわかりやすい理屈で、ハズレをひかぬよう、事前情報の収集に常日頃いそしむ者にとってこそ効果的で。
作品•展示会に余計なフィルタを介すことなく、触れさせようとする。

初体験の衝撃は未知であるから衝撃なのであって、
意識しても、訓練しても、叶わない。

だからこそ、レビューでも感想でも、その具体的な作品ビジュルアルは語らぬ方が良いと考える。既に作品情報は多数出回っているけど、少しでも情報は少ない方が率は下がるだろう。

にしても受付で手に入るステートメントが丁寧過ぎてにやにやした。
会田さんのキャラクターもしっかり出てるし、
美術に対する真っ直ぐで簡潔にまとめられた思考。
しかし、何よりお人柄。この瞬間は美術家としてよりも、人としてこんな方になれたらいいなぁと思ってしまった。

作品と人間性はある程度切り離して考えるべきだと思うけど、
人がつくりしものである以上、この繋がりは分断できるものでないとも思う。
それは人としてのすごさだと思う。
私が敬愛する森博嗣先生も常々、人の「すごさ」を知ることは大切であると仰っている。
もちろん、そんなすごさに出会うことは稀。だから、とても晴れ晴れとした気持ちだった。

かなり長時間作品を鑑賞し続けていた。
注目度もあり、平日の日中だというのに結構な数の来場者がいた印象だが、皆滞在時間は短かった。作品ごとにアプローチも素材の分量も違うように見受けたので、そこそこの鑑賞時間に耐えうる作品群だと思ったのだけど。
その分、誰もいない会場でゆっくりと鑑賞できたから幸せでした。

さて最近は、自らの不勉強を嘆き、できる限り本を読もうと心がけている。
その中で現在、一番気になることは人間の感覚器官の中でも最も多用されている「視覚情報」に関する書籍であり、これが本展を鑑賞するにあたり、良い刺激を与えてくれた。

初歩的なことは皆学生時代に学んだであろう、人間が光を認識するメカニズム。
今回取り上げるのは、とある視覚障害者へのインタビュー。
健常者との対比により、それぞれがどのような世界を捉えているか?という内容である。作品鑑賞に際して思い返したのは以下の要点(完全なる引用ではない)

•私たちが多くの事物を二次元的に捉えてしまうに対して、視覚障害者は三次元的に捉える傾向があるとの指摘。
•視覚障害者は、視覚以外の感覚器官を用いて対象を見ようとする。そしてその瞬間、脳内で視覚を司る部分「視覚皮質野」が発火している。つまり視覚野が視覚以外の情報処理のために転用されている。

つまり、作品を「見る」ことは視覚という感覚器官の専売特許ではないとのこと。(人間は全体の8〜9割を視覚情報に頼っているとされる)

遠回りしたけど、会田さんが手がけた本展示会は、
絵画作品だけに留まらず、広義の意味で、
対象の表層とその内実を切り分けるものであったと考える。
それぞれに人間が(勝手に)情報と意味を見出し•付加させる。
しかし、その実態は視覚の優位さもあり、表層に大部分の意味を見出され、
その内実はないがしろになりがちであるということ。
世界中の至る所で今も起こりつづけている、そのこと。

さてステートメントには、以下の記述があった。

すべてを石油から科学的に作られた20世紀以来の物質に統一したかった。

視覚情報を勉強するにあたり、私なりに塗料に関する書籍も読んだのだけど、それらの書籍において、塗料のその役目は、美観の付与と作品の保護の二点であると繰り返し記述されていた。
東京芸術大学大学院の(油画技法材料第一研究室)にいらっしゃたという会田さん。技法•材料に関する知識に長けているはずで。絵画の物理的な内実へ、材料という分野から食い込もうとするのは、経歴だけを考慮しても本職の中の本職ではないだろうか。
描かれた事象以外を武器にして、巨匠の名前を引き合いに出して、
書かれた事象自体はカラフルなアレであるとか、徹底している。

 

なんか見返すと長くなってしまった。
繫ぎがあまいけど、見てくれている人がいたら許してね。

対象の表層とその内実に目を向けるにあたり、
人間は意図に関わらず、星座のように、点在する情報に意味や関連性を見出してしまう生き物だと思うから、完璧に切り分けることは困難だと思う。
本展示会のビジュアルと展示会タイトルの関係性から見られるように。

しかし、逃れられぬ定め、それが私たちという生き物であるということだと思うし、だからあのビジュアルは素晴らしいと思う。

会場で手に入るステートメント、そして公式のテキストが大変良質です。
だから最後は公式のテキストを引用して終わりにします。

ご本人にはお会いできなかったけど、
美術家としてのお姿、しっかりと目に焼き付けました。

会田は今回50歳という節目の年に当たり、自身が一度も試みたことのない、まったく新しい方法・形式・素材に挑戦します。これまでの「会田誠」という作家イメージを根底から覆すもので、「なんなら今までの僕のファンが総取っ替えになっても構わない」と会田は言い切ります。
そのため事前に新作のイメージを公開することは禁じ、ヴィジュアルに関しては展覧会オープン初日まで完全な秘密主義を貫きます。

今回会田が目指すものは、ずばり絵画における「純粋な美」です。出品点数は30点以上――ギャラリーにおける個展としては過去最多となる見通しです。
「こんな絵画展らしい絵画展をやるのは、これが人生で最初で最後だろう」「ゲルハルト・リヒター、ジェフ・クーンズ、ダミアン・ハーストといった国際的アーティストと、自分との関係を深く考えた末の結論だ」と会田は語ります。世界的視座を持った現代美術コレクターには、きっとご満足いただける内容になることでしょう。今まで会田の作品に、あるいはミヅマアートギャラリーに馴染まなかった方にこそ、ご覧頂きたい展覧会です。

本展のタイトル「はかないことを夢もうではないか、そうして、事物のうつくしい愚かしさについて思いめぐらそうではないか。」は岡倉天心の『茶の本』(浅野晃訳)の第1章末尾の言葉から採られました。こんな荒んだ時代だからこそ落ち着いて「純粋な美」について再考したい、という思いが込められています。
なお、DMなど告知のためのヴィジュアルは、展覧会の内容と激しく乖離したものであることをお含みおき下さい。(http://mizuma-art.co.jp/exhibition/16_07_aida.php)

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