嵯峨篤 「Perception」

嵯峨篤
「Perception」
2016年7月8日(金) – 8月6日(土)
SCAI THE BATHHOUSE
住所 : 〒110-0001 東京都台東区谷中 6-1-23 柏湯跡
Tel : 03-3821-1144
開廊時間:12:00 – 18:00 日・月・祝日 休廊」


嵯峨篤は10年以上に渡り、絵具を塗布したパネルの表面を、手作業で執拗に磨きこむ鏡面化のプロセスに一貫して取り組んできました。塗りと磨きの執拗な反復が絵画の表面を作り出し、鑑賞者を映し出す透徹した平面空間を生んでいます。手作業で可能となる限界点を探るこうした行為は、一見、工業製品のようなミニマルな外形をもっていますが、そこには手作業によって条件付けられたやわらかい光の反射や、色調におけるわずかな差異があります。「Perception (知覚)」と題した本展は、この平面に閉じ込められた微細な差異を見分ける鑑賞者の知覚に向けられています。(引用元)

丁度自分が訪れたときに、様々な国籍の来場者と居合わせたのだけど、
日本人の方が画面に興味を抱いている様子で、鑑賞時間が長かった。
ステートメントを見ると、能や香道といった伝統文化を引用•参照しつつ制作なさっているようで、アジア民はより文化的にも馴染みやすいのかもしれない。

「Perception」=知覚

本作は、鏡面化させることで何を果たそうとしたのが一つ、大きなテーマだと考える。さて、もちろん鏡面に直接触れてはおらず、またその鏡面の厚みなどの情報も不足しているが、書ける範囲での感想である。

まず鏡面化させることで、表層の少し奥側に潜む絵具を保護し、鑑賞者と絵具との間に物理的な境界を作り出している。次に、絵具の色を知覚しようとする者へ、多大なる光りを届けようとする。
光の反射は角度によって大きく作用の幅を変えるから、自らの立ち位置や身長に応じて、見方を変えることを自然に強いる。

このあたり、意欲的に鑑賞せねば本作はその姿、全貌を捉えきれぬあたりが、奥ゆかしいというか、なんというか(良い)
見るという行為の便利さ、その生活へ肩までどっぷり使っている者をやわらかく諭す、しかし、去る者は追わず。

特に一段床部が持ち上げられた箇所にあった二作品は、
屈まないと、絵具の色彩と図柄を読み取ることは難しい。
実際に私も屈んで、首を傾けてやっと読み取ることができた。

鑑賞という行為は、時間をかけてやっと見えてくるものが沢山ある。
短時間で済まそうとすると、小説の斜め読みみたいに、
情報の取りこぼしが起こる。だから、さっと帰られた方々は勿体無い。

さて本作の鑑賞に際して、一冊の本をご紹介したい。

以前読んだ本、伊藤亜紗(著)「目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)」の中で、視覚障害者が美術作品を楽しむ方法の一つに「ソーシャル・ビュー」という手法が取り上げられている。

一部はこちらで読めるので参照頂きたいが、目が見える人が、作品の「情報」と「見出される意味」を次々に言葉にし、目が見えない人がその言葉を手がかりに、作品を想像する、というものである。この一冊では、目が見えない方々が、どのように世界と事実を知覚しているかが、視覚障害者へのインタビューを通じて綴られている。

見えることが全てではないし、逆に見えてしまうことが落とし穴にもなり得る。
視覚情報のデータ量の多さに対応できず、溺れてしまうことはないだろうか。
人は意識せず、様々な感覚器官を動員し、その組み合わせで世界を認識している。

鑑賞時、この本のことを思い返して、ふと目を閉じて、耳を澄ませた。
先ほどまで目が捉えていた情景、今も目の前に物理的に存在している作品。
その細部に、奥底まで知るには、視覚だけでは心もとない。

持ち得る感覚器官を総動員して、試行錯誤。
時間をかけて、愛でる。
目を触覚として機能させ質感を感じ、耳を澄ませ、鼻を利かせ、舌先を転がす想像をする。
それもこの場においては「鑑賞する」という行為である。
しかし、そこで捉えきれた情報は別の要素が醸し出したものかもしれない。
しかし、そういうものではないか。それでいいのではないか。

この場で得られたものは全て、作品に還元されてもいいのではないか。
そんなことを考えていたら、ふと視野が広がった感覚。

複数の器官から得られた感覚情報を元に、
真っ暗闇で作品を鑑賞者が再構築を試みる、
そこで意味付けを、知覚を果たそう。

本作は、それらの道筋を示すような役割をも担っているように思う。

「Perception」と名付けられた本作。
感覚ではなく、知覚と名付けられたところ。

懐が深い、
座禅を組みたくなった。

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