今村 洋平「live printing」

今村 洋平 YOHEI IMAMURA
live printing
2016.7.30 (土) – 9.18 (日)
オープニング・ライブプリンティング:7.30 (土) 16:00 -, パーティー:18:00 – 20:00 夏季休廊:8/8 – 26

KAYOKO YUKI
2-14-2 Komagome, Toshima-ku, Tokyo 170-0003 Japan
MAIL: info@kayokoyuki.com / TEL: +81(0)3-6873-6306
http:www.kayokoyuki.com


Title: tsurugi 2016
Artist: Yohei Imamura
Film: Hikaru Suzuki (http://hikarusuzuki.tumblr.com)
Production: KAYOKOYUKI (http://www.kayokoyuki.com)

今村洋平は、学生時代から一貫し、版画のシルクスクリーンというアナログな複製技術から、樹脂性のオイルインクを数百回、数千回と重ねる行為によって彫刻的な作品を制作しています。インクが通過する穴を、特殊な乳剤で直接スクリーンに描いて埋めていきながら版を作り、複雑な幾何学模様や、山脈の形状を作り出します。作家自身で発明した技法により、また作品の完成までに半年から一年以上の歳月をかけるため、作家の身体に合わせたスムーズな作業工程を踏めるよう、シルクスクリーンを置く台や作品を出し入れする棚、それらの配置や、作品の支持体などにも細かな工夫がなされています。


 本展で発表される新作「tsurugi No.1」「tsurugi No.2」は、地形図の等高線を利用し、日本に実在する山がモチーフとなっています。等高線の本数と同じ222個の版があり、1つの版を約40回ずつ刷ることにより、約0.4mmずつのレイヤーができ、トータルで約9000層 積み重ねられています。「tsurugi No.3」は、1つの版を2回ずつ刷っており、「tsurugi No.1」「tsurugi No.2」と同じ版を使用していながらも、また違った山の表情を見せています。さらに、版毎に使われたインクの色や刷った回数などをデータとしてパネルに記録した「log, tsurugi」や、スクリーンをクリーンナップする際に残ったインクを紙に転写した「turn, tsurugi」など、制作の過程自体が多角的に表現されています。

 今村は普段より登山に親しんでおり、山頂から望む雄大なまなざしを取り入れているようにも感じられ、制作行為の重なりと同時に、自然界や時間の重なりとしても観る者に迫ってきます。山の周囲をぐるっと囲むようにしてある抽象的な形状にも見て取れるように、山頂を目指して一歩一歩計画的に進めていく工程を中心に据えながら、その周縁で自然発生する手作業ならではのエラーや、コントロールできない部分を積極的に受け入れ楽しんでいるようにも見えます(http://www.kayokoyuki.com/jp/160730.php)

スクリーンを通過した樹脂製のオイルインクの堆積、地層が作り上げた光景、それこそが今村氏の作品である。ステートメントを拝見し、技法•過程を知った上でも、作品をなかなか冷静には見ることができない。
私は幸運にも今村氏が在廊し、ライブプリンティングの様子を目にすることが出来た。※上記の動画でもご覧いただけます。
今村氏は同様の技法で他作品も制作されており、どれもが複数回(といっても何百〜何千回)の刷りの集大成である。同手法は新作でも用いられている「等高線」という概念を併用することで、より効果的に演出される。

インクを上部から、極僅かに刷り出し、高品質に、抽出するように、向こう側に落とす。自然現象の爪痕、その途方もない繰り返しが、結果的に徐々に山の形を成し、山を模し、最終的には私たちが山として認識する。
制作日を重ねるに連れて、山が高くなる、大きくなる、これは視覚情報。
つまりインクは徐々に堆積し、重くなる。重量は視覚では計れない。

一度刷ったら、インクが乾くまで少々時間を置かねばならず、作品を作業台から保管場所へ一時的に移動させる必要がある。移動の様子を横で見ていたが、腕に浮き出た血管、その腰つきから見るに相当な重量である。

それは山、自然が形成されるまでに必要とされる時間の長さ。
そして作品を作るということの苦労も重なって見える、見えてしまう。

山という存在の定量化を試みた一つの実例が、等高線だと思うのだが、
つまり今村氏の試みは、山屋としての眼差しというフィルターを介した上での、定量化されたデータ(等高線)の再変換である。

本作はインクの自重に耐えきれず、変形した箇所も見受けられたが、
その部分は、ステートメントにもあったが「その周縁で自然発生する手作業ならではのエラーや、コントロールできない部分を積極的に受け入れ楽しんでいるようにも見えます。」という思考で補い、受け入れている。

丁度、先日「神々の山嶺」を読んだばかりなので記しておきたい。
人類の手に余る存在である自然、山に対して、登攀を試みる人類は、結局のところ、現段階では、天気、気温等の考慮した上で、運にも恵まれなければ、成功を手にすることが出来ない。既存のルートを通るにしても、日によって壁面の状態も気候も異なるし、難易度は一定ではない。天災により既存のルートが失われる恐れだってある。

自然は生きている、常に変化を続けるものであるということ。
定量化自体も、今(正確には過去)の一時的情報を記録したに過ぎず。
全てを把握することは、少なくとも、今はおこがましい。
全てを受け入れ、ある程度のゆとりを持つことが必要であろう。

科学技術が際限なく発展するとしたら、やがて、
死を克服し、未来を知ることも可能になるかもしれない。
しかし、今現在も死は確固たる未来として存在しているし、
未来は枝分かれした可能性の一部を捉えるに留まっている。

だからこそ、私たちは非力であることを念頭に、
何事にも抗い続けているのだと思う。

とても刺激的な時間だった。
作品も面白かったが、その結果、例えば「登頂した!」よりも、
そこに至るまでの一挙一動をこの目で見れたというのが嬉しかった。

私たちが普段より踏みしめる地面、土、アスファルト。
その更に下の地層、私たちの足下に眠るものたちのことを、
もっと意識していたい。

少しそれるが、以前読んだ視覚障害者に関するインタビュー記事。
著者が視覚障害者を山の上にある大学に連れて行ったときの出来事。
駅前からゆるかなな上り坂を経て、山の上にある大学に向かう道中、
「この大学は山の上にあるんですね」と言われたそうである。
著者は大学が山の上にあることは勿論知っていたが、町並みや店舗を意識して、つまり視覚情報をベースに地域を捉えていたから、山の上にある大学という認識は無かったそうである。
しかし、視覚障害者は視覚情報を得られず、この場合、重力の働きと自らの足にかかる負荷を便りに「山の上にあるのではないか?」「山を切り開いて建てられた大学」と推察したそうである。

今村氏の作品を見て、上記の話を思い出した。
確かに今村氏の作品は視覚情報として、起伏を捉えることはできるが、
視覚だけでは得られない情報も確かにそこにはあって、
現在の技法だからこそ得られる情報がそこにはあった。

視覚だけでは手が届かない。
見られないものがある、経験できないものがある。
だから、死が眼前にぶら下げられても山を目指す、
山屋と呼ばれる者たちはゼロにならないのかもしれない。

「神々の山嶺」を読んで印象的だった言葉があった。
正確ではないかもしれない。
エベレストを天国に一番近い場所、と。

知らずとも生きて行けるはずなのに、
他にも時間の使い道はあるはずなのに。
なぜなぜ、と問うのが人間、それは某書で見かけた言葉。

バベルの塔みたいに、人間らしく、人間の無謀さというか、愚かというか、無力さを思い知るため、良くも悪くも、人の本質を暴く手段になっている気がした。

山の存在により。

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