見えるものの強さ

部屋を広く使いたいなと思って、自作の棚を撤去。棚板を毎日少しずつノコギリで裁断し、達磨落とし的な要領で短くしています。思い返せば、限られた空間を最大限利用しようと思っていたら、自作棚に辿り着いたのです。

話はかわりますが、私は身長のわりには肩幅があるので、服を肩幅に合わせて選ぶと着丈が長過ぎるということが多々あります(あまりにみっともないスタイルであればカットアウトするなり、裾直しに出すなりしますが)。私と同世代の方々ならば、物心ついた頃にはプレタポルテどっぷり世代ですから、完成品を見ながら、「これはいけるか、いけないか」的な基準で服を選んでいたであろうと考えます。ときには、既製品がある種の目標、憧れに近い位置にあったとも言えるのではないかと。身の丈に合っていない種の衣類など、まずは自らを既製品という型に流し込んで、馴染むように自らを変化させる。そんな機能性を対象に、無意識に求めている瞬間も多々あったのではないでしょうか。

あとは、服を選択し、メイクを整え、鏡の前でチェックするときに、自らのスタイルを客観視するための力を養うことが、ごく一般的な社会人とやらに求められるスキルなのだと思います。
作業服や制服、冠婚葬祭など、例外とされる機会も多々ありますが、法律に触れない範囲で、外見を気にするのはその人の自由であり、人生であると思います。似合っているorいないはどうでも良くて、なぜそれを選んだのか。突き詰めれば、なぜその生き方を選んだのか。その一手に着用者が満足であれば良い。他人がどう思うかは、ほとんどの場合些細なことです。

しかし残念ながら、露出する装飾という要素に、大多数の人間は大きく興味関心を抱いており、またそれらの装飾品には、単なる装飾という範囲におさまらない、膨大な情報が付随していて(金銭的価値や宗教的意味や風俗との関連性などが一例)、それら全てを無視して我が道を歩き続けていると、無視できないマイナス値になったりする。

なんの本かは忘れたけど、最新の流行とやらが世間に浸透する最初のきっかけは「ファッション」であると書いていたおばさんがいたのを記憶している。やはり、まだ暫くは装飾的、視覚的要素の優位性は揺るがないだろうと思った次第。機能性に重点を置く目利きの方々が沢山いようとも、市場にアウトプットされるには、装飾的要素にも手が加えられてからでないとゴーサインが出ないのであろう。機能性って視覚情報には置き換えにくいものね。売れないもんね。

昨夜、突然DVDプレーヤーが故障したので映画は無し。即、Amazonで注文したので今夜は映画が見れるといいなぁ。