死のイメージをつくりだすイメージ

7月27日(木)
最寄りのスーパー、レンタルDVD店には既にセルフレジが導入されている。セルフレジ普及により都心はレジ打ちの雇用をある程度削減はできるだろうが、しばらくはマシーンを管理する人員は必要である。マシーンの目が届かない、手を出せないエリアは存在するし、マシーンは自分の背中をかくことさえできないのだ。

「教養は辞典で磨け」という本を読んだ。以前から辞書を日常的に読んでみようかんと思ってはいたので、これを機に1冊辞書を買ってみようかと思案中である。とある小説家のお母様は、辞書の文字をチラシの裏にひたすら書き写すという勉強法を実行していたらしいが、その記述を見つけたときには息をのんだ、それを覚えている。

今読んでいるエッセイで書いてあったこと。
「映画では銃でもナイフでも死なない敵が沢山いて、結局は肉弾戦に持ち込む。最終的にはちょっとした偶然(エレベータの下敷きになる等)で結末がつくことに対して武器をつかっていることが後ろめたいのかな?」と述べていた
大衆は他者を直接死に至らしめる経験なんて持っていないし、直接目にする機会も滅多にないだろうし。ようは人が外力で死ぬことを実際に体験したことも、見たこともない。だからイメージし辛い。そして「これなら死ぬだろう」というわかりやすい強大な外力イメージを映像化することで、落ちをつけるテクニックとして多用されているのではないだろうか。
現代が舞台の作品だと、交通事故なんかがメジャだと思う。他の死因と比較すれば発生件数も多いし。事故の結果と死のイメージが紐付けやすいのだろうと想像する。

「やったか?死んだか?」とか「これならやつも立てないだろう」とか。多用し過ぎて、観客は死に鈍感になっていく。死が遠ざかる、幻想のように見えてくる。いっそのこと、最初の一撃で息の根が止まってしまうように描いた方がショックを与えられる。これを効果的に利用しているのはいわゆる昼ドラではないか。本当に些細なことで彼ら、彼女らは死んでしまう。もちろん皮肉である。北斗の拳「お前はもう死んでいる」もこれを利用している。もちろん皮肉である。

今日見た映画「フィフス・エレメント (1997年)リュック・ベッソン」
先日ダイハードを見たばかりなので、ブルース・ウィリスがまた事件に巻き込まれているというコメディチックな目線で見てたのが良い塩梅だったのか。とても楽しめた。彼はとても愛嬌のある顔をしているから、こういう方面の方が似合う。美術の面でいえば、ブレードランナーよりふざけたデザインが気に入った。既存のアイテムに毛が生えたくらいの機能充実具合っぷりとか。あんま後先考えないで行動するゲイリー・オールドマンとか。本作は監督が16歳の時に構想練ってたらしいぜという記述をネットで見つけたけど、それが本当だとしたらもっと評価を高めても良い。楽しい映画である。あとミラ・ジョヴォヴィッチのつたない英語がかわいらしい。彼女の角張っている骨格•ボディは、ゲーム(仮想)の世界との相性が良いのかな。バイオハザードとか。