手段は中性、評価対象は意志

8月5日(土)
とあるブログで、インスタグラムで自分が食べる料理や店の外観を紹介している人を「おじいさんが孫の写真を待ち行く人たちを引き止めて見せている光景」と喩えていた。適切な比喩は鋭利である。もちろん、非難ではない。

本棚にしまい忘れていた本を読み返した、二週目。読書の際に気になった箇所はマーカーを引いて、ページを折るのですが、二週目だと前回と異なった場所が気になります。一周目に得た情報が起点になり、二週目の私に影響を与えたのでしょう。充分にトレースできた箇所は折り目を逆に曲げて、マークを外します。このマーキングが全て外されることが身になるという感覚です。しかし、マークが残ってもいい。なぜという疑問は大切である。

「友達を選ぶ」という表現が、悪い意味で使われている娯楽作品が結構多く見受けられるような気がします。人は大抵の物事を自らの好き嫌いで選ぶのが自然で、人を物質や手段と同列に扱うことへの嫌悪でしょうか。
ピーター•ウィアー「いまを生きる (1989年)」という映画で、とある生徒の父親が子供に対し、同質の表現を投げていたのが特に印象深い。子供も父親も同様に友達を選んでいるのですが、その選択に到った目的と理由が異なるから言い争いになる。選んだのは手段であり、手段自体はポジでもネガでもない。
技術運用における概念として、デュアルユースという用語があります(軍事と民生の両方に応用可能ことを表す)。分野は違えど、大半の手段は目的次第でネガにもポジにも変容し得る。その自覚を促すに最適な用語である。
同作において、父親は子供の気持ちをトレースできず、亀裂は埋まりませんでした。理解することは同意ではないのに、順を踏むことを放棄したのですね。一義的な結論を導かれたら、自然と反発したくなるでしょう。電車は逆らうことなく次の駅まで到着しているように見えますが、強固なレールから逃れることができないから、そうしているに過ぎません。真っ直ぐ目的地を目指しているように見えていてもレールは徐々にすり減っているのです。そして夜な夜な人の目に触れにくい時間帯に神経質なメンテナンスが行われているのです。

久しぶりに花火大会に出かけました。仕事をしてたときは土曜日は休めなくてなかなか見ることができませんでした。混んでましたね、一時的に歩行者天国になった道路を歩く大量の人々の様子は異様。集団疎開というワードが頭にちらつきました。
最寄りのコンビニは店内に入ることができない有様。見回すと150m先にコンビニと商店街があって、そちらは空いていました。信号機や横断歩道1カ所の影響だけで、人の流れとはこんなに大きく変わるのです。人間の行動心理には物理法則も応用できるという一例。

さて、傾斜のある草むらに座り込んでお酒を飲みながら静かに鑑賞。本大会の目玉は、東京最大の尺5寸玉。大迫力の尺5寸玉は打ち上げの高度がやや低い印象。結構な量、燃え尽きる前に地面に落ちてしまってました。十分なマージンをとらず、額装された絵画みたいに窮屈な印象でした、勿体ない。
ポケモンが20周年らしく、ポケモン花火なるものが打ち上げられていました。ピカチュウやモンスターボールのイメージ、あと20という数字も夜空に浮かんでいました。これがなかなか良い。前述の具体的イメージは正に子供向けなのだけど、黄色と赤色を中心にした配色は、ポケモンという作品のイメージを崩しすぎず、あくまでも花火という表現方法を尊重していた。最後まで見ると、ポケモンという作品を包むイメージが感じとれる。20年もやっていると、例えば当時10歳の子供が今は30歳になっている計算だものね。現在の子供だけに媚びず、かつての子供も意識したと感じとれるだけの花火、とても良い気分になれた。年を経て、やっと花火の見方がわかるようになってきたのかもしれないと思った。しかし、奥行きを感じとるだけの成長を確認すると同時に、のめりこむことが難しくなるのはジレンマ。しかし、それが生きるということでしょう。

帰宅してから「ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人 (2008年)」を見た。本作は二人のアートコレクターを紹介する映画である。評価は可もなく不可もなく。コレクターとアーティストとが関わり合う瞬間を見たかったなぁ。ほとんどがコレクターのプロフィール紹介だった。製作陣と二人のコレクターとの間に距離感を感じた。客観的であろうとしたのか、冷静過ぎ。距離がありすぎて、コレクターの熱量がカメラに来るまでに下がってしまった印象。彼らは本当に自らの為に作品を購入しているタイプのコレクターだから、「こういう人もいるんだなぁ」くらいの感想で留まってしまう。中途半端だった。