不可視の評価の気配

講談社文庫が46周年ということで「乃木坂46」とコラボフェアを実施するそうです。一見、異色と捉えられる組み合わせのフェアは日常的に多数観察されます。発信者側にとっては、それで利があると考えるべきでしょう。そもそも書籍のフェアは、読書好きに訴えるものではありますが、異種の読書好きにターゲットが絞られている。書籍はメディアに過ぎず、内包されたコンテンツは消耗品ではないから、常に新規顧客に訴え続ける必要がある。つまり書籍のフェアは既存の読者層にはあまり利がないといえます。

単行本から数年経過し、文庫本が出版される際に、価値を付加するためにあとがきや解説を加えたり、内容に修正が加えられたりしますが、中でも大きな変化といえば、メディアの物理的なサイズの変化と、パッケージのビジュアルの二つ。売るために、見た目を変化させている。

特に小説やエッセイは、コンテンツを受け取る為に雑誌等と比較しても、より多くの時間を必要としますから、消費者側はぱっと評価できる価値を求めるでしょう。それがコンテンツとの関係性は希薄だとしても、読み終えるまでは関係性の度合いを知ることはできない。

コンテンツに対し行われる消費者による評価の話。
CDでも書籍でも、購入は一つの大きな評価に違いないでしょう。しかしコンテンツを購入する人と購入しない人とで、評価の本質が揺らぐとは考えません。買わないけど、とても好きという評価がある。見ないけど、聞かないけど、いつだってそれを想っているという評価もある。また、好きじゃなくても、買うことはできる。購入がもたらす情報は、購入されたという実数を伴う事実、そしてわずかに潤う懐具合。コンテンツに対する賛美は映ることはなく、あると言えば期待値。

単純に金銭をペイする以外の評価方法が登場したことも大きいのでしょう。当初、コンテンツのセールスを評価の主軸にしたオリコン。同社も既に単純なセールス以外の指標による評価も重視し、各種ランキングを構築しています。

価値観の多様化という現象は、趣向という主観だけでなく、趣向の延長線上にある評価方法にも起きた。評価という行為が、より本質に近い位置で捕足されるようになったとも言えるでしょう。ポジティブな出来事です。

そもそも本質は目に見えないことを、人は実感として知るべきでしょう。

話が幾度か飛躍しましたが、この辺りで切ります。