or の価値

私は、長生きすることに対して、ネガティブなイメージを持っている。それはあくまで己に対してのみであり、他者が長生きしようが、それは自由である。

明瞭な例を挙げるならば、手塚治虫の火の鳥だろうか。死から、肉体から解放されて、永久の生を得る。例えば「寿命が一年プラスされます」とかロスタイムみたいな微妙な加減ならば、受け入れるかもしれない。けど、永遠は長過ぎる。だって、地球が今の平和を保てる保証などないのだから。

あらゆる生命体は死を前提に生まれていると考える。死を排除したら、この前提が崩れてしまう。たとえ、宇宙は果てなく膨張を続け、空間は広がり続けるのだとしても、私たちが生きられる、また今踏み込める場所は限定されていて、有限である。

有限なのに、永遠をぶち込めば破綻するの当然だろう。そして、破綻により生まれた不幸を、長期的に味わうのは永遠側である。

長く生きることは、その他を置き去りにすること。
長く生きることは、孤独になること。

長生きが決して素晴らしいことだとは思わない。自らに結果的に与えられた時間を、どう活かすか。その計画に大きな支障が出ないように、健康に気を使えば良いのではないか。

生きたいと願うことが本望だと仮定しても、本能が正しいとは限らない。そもそも、生が正しいとは限らない。

人間は飽きる生き物だと思う。飽きたら捨てる、買い替える。そういった選択肢が確認できるから、安堵する。しかし、永遠を選べば、生を放棄することができなくなる。「死」を手放すことになる。

生も必要、死も必要。
選べなくなることが、恐怖なのだと。

こだわりの無駄

私は、こだわるほど、食事に対して興味を持っていません。

そこそこ美味しければそれでいいし、どんなに美味しくともすぐに忘れてしまう。コストに対して得られるものの耐久時間が短いといいましょうか。そもそも、高価な料理とは、耐久性で計られるべきものではないし。私とは相性が悪い、それだけのこと。

先日も書きましたが、年単位で通っているラーメン屋があります。一番オーソドックスなラーメンが600円です。そこにトッピングを加えると、100円から300円ほど上乗せになります。私は、ほとんどトッピングをしません。600円の状態のラーメンは、コストと味のバランスの比率が優れているのに、トッピングを加えた瞬間に、比率が崩れると感じるのです。

これは、単純にトッピングが追加される行為にお金を出すのではなく、トッピング混みのラーメンにお金を出すという考えに始まっていると考えます。

お得感を装っても、利益率が上がる見込みがあるのが当然。部分に意識を集中させ、全体の出費を忘れさせる。極端なことをいえば、手品師みたいなマネ。

こだわりというものは、自らにふりかかるマイナス値を把握した上で、あえて踏み込む行為に向けられる言葉だと考えます。だから、私は何年も同店に通ってはいるけども、それ自体はこだわりではない、と思うのです。

なんでそんなものに大金を払っているんだろう、ばかだなぁ、と思わせる行為こそが、こだわりといえます。一般的には、無駄と表現されるものです。

先回りの目的

昔の話。職場に向かう途中にある喫茶店で、毎朝、アイスティーをテイクアウトしていた。アクセスも容易で、年単位で習慣化していた。また、私は冬場でもアイスティーを注文し続けた。

数ヶ月ほどしたら、列に並んでいるだけで、現在対応中の業務と並行して、アイスティーを作り始めるようになった。更に、より多くのスタッフに「いつもアイスティーを頼む人」と認識されたようで。レジの店員が忙しいときは、周りのスタッフが事前にアイスティーを準備してくれるようにさえなった。

素早い対応はとてもありがたい。しかし、店に入った時点でメニューを決められてしまうと、他のメニューを頼み辛い。たまにはアイスコーヒーを飲みたいときもあったが。彼らの姿を見ると、アイスティーしか頼めなかったのだ。

最終的には、その店が混雑具合が酷くなり、行くのを辞めてしまった。

他には、行きつけのラーメン屋がある。年単位で通っているので、最近は好みの味なども覚えてくれている。しかし、前述のコーヒーショップと違って、「○○でよろしいですか?」と毎回確認をしてくれる。あくまでこちらから「○○でお願いします」と聞く手間を省いているだけ。

お客様の試行を先回りし、手間を省かせる行為はだいたい、ポジティブな評価を得るとは思うが。人間は複雑系なので、ある程度のゆとりを持たせておかないと、不自由さを感じさせてしまう例もあるよという話。

前者の場合は、効率化。
後者の場合は、親近感。

行為は似てても、意志が異なる。