それはしあわせか。

風が心地良かったので、区営のこども動物公園に出かけました。入場無料で、小動物とのふれあいコーナーもあります。勿論、有料の動物園と比較すれば、規模も動物の種類も少ないけど、この小規模ならではの味わいが好きです。

手作り感丸出しの柵、近所に住む小学生たちが動物の世話のボランティアをしていたり。人と動物を隔てる垣根が低い。もう少し垣根を低く設定したら、放し飼いになりそうな希薄さに自由を感じるのでしょう。その姿を見るだけ心地良い。

さつかわ氏は、モルモットを撫でて、彼らの暖かさを感じていました。耳を澄ませると、小さな鳴き声、生きている。つまらないことをいえば、この光景も視覚と嗅覚と触覚から受け取った情報に過ぎないのです。再現の精度さえ高ければ、違和感なく、彼らは生きていると誤解することもできる。

その分岐点は、彼らは生きているはずだ、という認識の有無。穿った見方をすれば「彼らを生きている」と仮定した場合ともいえます。

フィリップ・K・ディックの小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」では、人工の動物が数多く登場します。既に野生動物の多くが絶滅した時代なりの世界の維持の仕方。それでいいと受け入れるか、それでも生きていると受け入れるかすれば、その方向に日常は延長を続けます。つまるところ、主体の考え方に依存するくらいのものでしかない。

生き物の生死に限らず、大抵のもの、出来事は考え方次第。嫌なことがあったら、切り口を変えて、違う側面を見て一喜一憂したって良い。省エネルギーです。生きる行為の毎日、連続の中で、自らが向き合う対象から、歓びを抽出する行為に注視しましょう。それが健全。

幸せは個人間で完結するもの。他者の眼差しが幸せの萌芽をもたらという考えは、生き物としての弱さでしょう。錯覚さえも味わおうとするテクニックかもしれませんが。人の眼差しを気にしていても、何も良いことはありません。物理的な影響はないのですから。

冷たい風に吹かれながら、パンとアイスコーヒーとタバコを味わいました。
とても幸せです。