知る、不自由。

豊島美術館の話の繰り返し。

内藤礼やタレルの作品は、人間が対象を認識する能力やプロセスから発想を得た作品だったなと思い返す。認識力の限界を見定め、仮定し、構築された作品群だった。ネガティブな表現をとれば、行き詰まりを理解してからの足掻き。作品群から鑑賞者が新たに得られたと(思う)気付きがあったとしても、潜在的に持っていたものであり「外部から得た」と考えるのは楽観的な錯覚。大方の発想は、それを道だと認識していなかっただけのこと。だが、より広い視野を得ることが、一個体が可能とする進化の糸口か、足掻き。

「ここをこんな風に通ってごらん」という提案が、未開の土地を開拓し、未見の風景を目にする起点となる。自身の思考力の不自由さを知る機構を持つものが、前述の作品群である。ここから得られる教訓は、得られるものの価値ではなく、新しいことに挑戦する意義。

芸術とは、美的価値を想像しようとする人間の諸活動のことである。しかし、芸術に限らず、あらゆる分野が目指し、渇望するのは、自由に違いない。枷は、肉体と寿命。この二つの枷を外すに際し、倫理と進化、どちらを後の人類は選択するのか。最終的には後者だろう。

AR(拡張現実)やVR(仮想現実)の分野の発展を眺めていると、絵画や写真といった古典的な表現技法さえ、いつかマイナ化するんだろうなと思ったりもする。日本ではまだ電子書籍の普及率が低いとされているけど、一部書籍(分野や作家)を限定すれば、電子書籍版の方が売り上げている例も散見される。古典、アナログの特性がシュミレートされ、ハード側のアウトプット精度が高まりさえすれば、アナログは下位ランクに置換され得るわけで。

電子書籍だって、今後は印刷媒体よりぐっと値下げされるはずだし。印刷物のアドバンテージは減少が自然。天秤は既に充分に傾いている。

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