評価に要する時間

「感動」を辞書を引くと「物事に深く感じて心を動かされること」とある。一般的に、ポジティブなイメージを付加させる目的で用いられると認識しているが、単語は本来、ポジやネガといったキャラクタ性を持たない。だから「感動した(悪い意味で)」とも捉えられる。しかし、ポジ側の使用例がメジャだから、良好的なイメージが続いているのだろう。

「感動した」と言われたら「どっちに?」と答えたい。動かないくらいならネガに動いたほうが嬉しい。変化がなければ、関係を持った時間の浪費である。

話は変わる。
純なるアーティストが望む評価は「感動」という一言に集約されていると思う。「〜だから感動した」など、接続詞をはさみ、単語の数を増やし、言葉を尽くすことは不要である(熱量は表現できるかも)。理解が及ばないけど、なんかすごい、という体験こそ、至高であるとの考えより。

「すごいなぁ」と声に出せるならば、声に出せるだけの余裕がある。自分の場合、すごい作品に出会ったら、すぐには声に出せず思考をする。声に出す(なんらかの評価を口にする)には、充分な思考のために時間を絶対的に要する。

この思考に要する時間は余韻とも言い換えられる。余韻に充分に浸らずしての評価を許されるのは、天才くらいだろう。テレビのグルメ番組は大抵、食べ物を口に含み、瞬時に評価を口にする。素早い評価は、低い精度を表し、短時間で味わい尽くせるほどのお味ですね、と言っているに過ぎない。料理人に対し、大変失礼な行為だと思うが、未だに同様の光景を目にする。

言葉で感想を述べるなんて、ラジオでも書籍でもできる。食事風景を見せることで、食の歓びを表現できなければプロ失格。使用食材や調理法など、テクニカルな分野に言及する者もいるが、料理人に問えば済む話。番組は出演者の技能披露の場ではないはずだ。本質を見失っている。