今は安全、未来は危険。

誤って、指をペンチで挟み出血してしまった。傷を認識した瞬間から、どくどくと波打つ痛みがやってくる。しかし、多量の血を見ると、痛み対する興味よりも、大丈夫かな?という思いが大きくなる。

些細なけがの場合、死を意識することはなく、現状を冷静に観察し、今、痛いか否かに関心を持っているのだと思う。しかし、大けがだと認識した場合、痛みへの関心をスルーし、生か死か、という未来に目を向けるのかもしれない。つまり、今を意識しているうちは、まだ取り返せる安全圏だと。無意識の内に、生か死か?に目を向ける、自らの仕組みに感心した次第である。

痛みは問題の特定に役立つ。これらのシステムは、生を肯定したものとも捉えられる。至極真っ当で、生命保持に最適なデザインだと思う。さて、草食動物の中には、肉食動物に捕足された際に、苦痛から逃れるために自らショック死を誘発する物質を生成する仕組みがあるという。

自らの手で人生に終止符を打つ。良い悪ではなく、潔いと思う。私見、生はおおよそ肯定されて良いが、どこまで生きるかは各々に委ねられるべきだと思う。せめて他者の意見を把握、尊重した上で、自由であるべきだ。手段さえ封じられたら、魂を放るしかない。

「ブリッジ」という自殺がテーマのドキュメンタリー映画を見た。橋から飛び降りる人々の記録と近親者へのインタビューを収録。事故死と自殺の大きな差異は、意図的か否か。

草食動物の例にとれば、ショック死の誘発と人間の自殺は似ている。死に向かう行為が悪ならば、環境を生み出した要因にも言及するのが道理。だが、当事者に重大な要因が存在する場合、自殺の理由になり得てしまう。

ドキュメンタリー映画は、事実の伝達に徹し、過剰な誘導は避けるべきだ。反発は、人類が元々持っているばらつきとして存在を認めよう(肯定ではない)。ばらつきをノイズのように除去することは避けるべきだ。