楽しさのツボは抽象的

人は何に対して「楽しい」と感じるのか、何から「歓び」を得るのか。詰まる所、人それぞれだが。せめて、自身のツボくらいは把握しておきたい。

この夏、帰省した際に、徒歩圏内の山を散策した。大雨が降った影響で、遊歩道には何本も小川が形成されていた。道の脇には大きな水溜り。拾った棒で水溜りの間に溝を引き、雨水を誘導してみる。すると歩道を流れる水量が減った。行きに処置して、帰りに見たら小川は溜まりになっていた。これがとても面白くて、翌日も同所にでかけ、昨日処置した箇所の変化を観察したのである。

その後、旧家に出向き、庭を散策すると、大きな水溜り(最長部で幅十メートルほど)。傾斜した山間、草をかき分けるとブロックで覆われた幅数十センチほどの水路が築かれていた。水路は生きていた。先日の大雨もここを通ったはずだ。さて、祖父母が亡くなったのはとうの昔。水路の先にある分岐点が一部、陥没していたのだ。雨水は行き場を失い、庭に溢れ出したと推察した。

早速、農具置き場からスコップを持ち出し、土砂および泥の除去を行った。雨水が徐々に引いている様子にとても満足した。

さて、私は何が楽しかったのだろうか。土木工事か?自然に影響を与えられたことか?未知の体験か?おそらく、組み替えられたことで、新しくモデル化された観念を手に入れられたことが、嬉しかったのだと思う。

対象間に一本の溝を引くだけで、状況は変わり得るということ。

本質はいつだって、抽象的。貴重な体験だった。