最初から高品質であれ

ジェームズ・マーシュ監督の映画「博士と彼女のセオリー」を鑑賞した。物理学者のスティーヴン・ホーキング博士と元妻との生涯を描いた作品。

博士は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し、最終的には手足を動かすこともままならくなり、声を発することもできなくなってしまう。そんな博士のために活躍したのが、コンピュータを駆使して発せられる合成音声。映画内では、従来のツールと比較して四倍の速度で文書の記述が可能になったとあった。

博士は、思考を文書としてアウトプットするため、理論を完成させるために、時間または速度を必要とした。当初は余命2年と宣告されていたのだ。

その望みを叶えたのが、前述のテクノロジーだった。そして先進的な機器は、技術的な側面に寄与するに留まらず、生きる活力さえも与えたに違いない。

時間にゆとりがあり、フィジカルな問題さえなければ、様々なツールが有効だろう。しかし、極限状態においては、強靭なパフォーマンスを発揮するツールが求められる。それが間に合った、まるでフィクションのようなストーリー。映画の題材に選ばれるわけである。その役目を果たしたテクノロジーが題材の映画も見てみたいと思った。

さて、速度は協力な武器に違いない。しかし、高速に出力された情報は、一般的には高品質とはいい難く、第三者による校正や見直しが必要だろう。

その道の天才や熟練者と呼ばれる方々は、高速に情報を記述しつつも、精度や質を低下させないだけの術を持っていると考える。だからこそ、凡人は推敲を繰り返し、這うようにして、高見を目指すのだ。