感動のベクトル

私は感動という言葉を日常生活で発することはありませんが、
思考の上では、感動という言葉を用いることは多々あります。

心が何らかの理由で、動いた、という感触。
それは何もポジティブな出来事だけではないと考えます。

親しい人が亡くなった、不幸な出来事に直面したときも、
同じくあてはめることができる言葉が「感動」だと考えます。

多少不謹慎だと思いますが、津波や噴火なども、
その出来事を撮影した映像を見ると、感動することがあります。

昨日、帰路の途中で花火大会が開催ということで、見てきました。
花火において、私が感動するのは「大きな音(振動)」と「火薬が広範囲に飛び散ること」
この二つです。

手に負えない感が、心をどこかの方面へ動かそう、
これは非日常(に近い)のだと自身に警鐘をならす的なものだと。

しかし、何も大げさな出来事だけが心を動かすわけではありません、
瀬戸内に旅行したときにも、早朝、人気が無く、ささやく声さえも、
周囲に響きそうな、静寂のただ中に身を置いていること知ったときにも、
私は静かに感動していたと思います。

動くとは相対的な評価であり、静寂なただ中にいれば、
内なる小さな鼓動さえも、激しく感じられることがあるということ。

情報過多な環境に身をおいて、自らも激しく振動(物理的・精神的)している状況下では、果たしてどこまで感動できるものか、と考えたり考えなかったりします。

大学時代を振り返って、ひきこもっていた時期こそが、
最も感動しやすい状態だったと思います。刺激が少なかったという意味で。
それは幸せな時期ではありましたが、
極端にいえば、うまれたての子供みたいな状態で、
それが良いかと問われれば、決してそうではない。

大切なことは感動した、後にあるのでしょう。
日を置いて、改めて冷静に観察することで、
対象の価値を正確に読み取ろうとする行為こそが、
我々に与えられた手がかりでああると。

その考えに基づくと、2回は楽しめるわけで。
そう、ポジティブに捉えましょう。